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四代目 歌川 広重(よだいめ うたがわ ひろしげ、嘉永2年〈1849年〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)とは、明治から大正にかけての浮世絵師。 == 来歴 == 本名は菊池貴一郎、別号を蘆の葉散人(あしのはさんじん)という。もとは医者の田中家に生まれ、後に芝増上寺の掃除番、菊池誠一郎の養子となった。この掃除番とはじつは密偵の役目もある役職で、貴一郎も養子に来た当座は捕方の稽古をさせられたという。幼少より書画を好み、書は御家流をものにし、絵は菊池容斎に学んだが、ほかに東条琴台にも学んだといわれる。明治3年(1870年)に二代立祥と号して開化絵、武者絵などを何枚か描く。「立祥」とは二代目広重が使った画号であり、このことから貴一郎は二代目広重からも絵を学んでいたといわれている。文明開化の頃を過ぎると浮世絵制作からは身を退いていたらしく、日本橋の本銀町一丁目(現在の日本橋本石町四丁目付近)に住居を得て妻とともに住み、寺子屋を開き子供相手に書道や漢文を教えて暮らした。明治38年(1905年)、蘆の葉散人の名で『江戸府内絵本風俗往来』二冊を出版する。明治以前の江戸の風俗事物について、自ら描いた多くの挿絵も交えて著したもので、その凡例の中では「拙きを顧みず、画する所となりしかば、画工専門を以てとがめ給わんことを」と謙遜している。 菊池家は初代広重が、絵師として売り出す前に出入りしていた家であった。その縁もあって貴一郎は、毎年その墓所のある東岳寺へ初代の墓参りに行き、そこの寺男に頼んで墓を守らせていた。これを寺男から聞いた東岳寺の住職は、広重の名跡を貴一郎に継いでほしいと頼みこんだ。当時、初代広重の墓はすでに無縁仏の扱いになっていたからだという。そして貴一郎は、ただ名前を継ぐだけならということで四代目広重となった。明治末年あるいは大正初年のことである。ただし一説には明治44年(1911年)12月、三代目歌川広重の未亡人安藤八重子と清水晴風が図り、貴一郎に襲名させたとも伝わる。いずれにせよ貴一郎は、直接には広重の家とは縁がなかった。大正2年(1913年)には貴一郎の名で防火研究会から『江戸の花』という絵本を残している。 大正14年2月4日、享年77で没した。墓所は港区白金の興禅寺である。法名は立斎院広重良義居士。実子に菊池寅三(五代目歌川広重)がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌川広重 (4代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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